指導

 

 ある種の人間は、とかくあらゆる物事の仕組みや根拠、理由といったものについて細かく言語化することを好む。害をもたらさない限り、その作業自体何ら悪いことではない。言語化好みの中には、当事者でないこと、自分が従事していない他人事について言語化する者もいる。新聞記者などがそれに該当するし、哲学者の中にもそういう者がいるだろう。

 

 哲学者の中には、何らかの理論や方法論の構築にあたって暗黙裡にはたらいている人間の機能を、あたかも命題の前件であるかのように言語化してしまう者がいる。そして単に言語化するのみならず、根拠や正当化を行おうとする。しかし幾何学の定理を証明したり、物理方程式を導出したりするのと、そういった科学的行為のさいにはたらいている我々の"前提"を言語化して正当化しようとするのとでは、わけが違う。

 

 哲学者たちの中には、私がそうであったように、(現代日本的な区分で)理系的な「センス」がないことをきっかけに、科学哲学的な行為に取り組み始めた者もいるだろう。そしてその結果、学校教育などでは与えられることのなかった暗黙裡の前提に行き着いて、憤慨することもあったかもしれない。しかしそれでもなお、科学哲学的な行為はあくまで科学についての個人的な理解であるとか、教育のために用いられるべきであって、科学や科学教育に対する劣等感や不満のはけ口だとか、それらの分野、人々に対するマウンティング、自己の優越性の維持に転用されるべきではない。

 純粋な愛知を欠いた哲学は、適切な言語化の範囲、適切な根拠づけの範囲を見失うからだ。愛知を欠いた哲学は、他人事についての語りになる。

 

 何らかの場で自らの優越を示す安易な手段は、論争に勝つことだ。話し相手の説明に対し、定理から公理へと遡っていくようにして、「なぜ」を繰り返す。しかしその問いは、公理に対して根拠を求めるように、不適切なものだ。そして問いの背景にある目的は勝利であるから、統計的根拠によって支えることが困難であっても普通の人であれば納得するような説明を、無視する。 そういうやり方で得られた勝利は、一時的・短期的なものに過ぎない。

 

 

自分の治療がその方法自体を対象とするまでになっているということ。