デッサン

 言語は粗いデッサンのようなものに留めておくのがよい。言語という粗いデッサンを見聞きした人間のほうが想像力をはたらかせ、思い出してくれるから、論点になっていない限り、細部を強いて描写しなくともよい。

 言語という媒体は、実際の物体だとか、実際の経験とは物質的に異なるうえ、言語によって実際の物体や経験を描写しようとしても、あまりに多くが脱落してしまう。だから言語の役割はせいぜい、覚書とか、絵コンテのようなものに留めておくのがよい。言語によって何をすればよいのか分かりさえすれば、人間にとって言語は用済みなのである。

 そして実際の物体や経験を人間が知覚したり感覚したりするのに要する時間に比べて、言語による伝達にかかる時間が長ければ長いほど、言語は用立たなくなる。長く細かいが用立つ言語とは、実は、その伝達にかかる時間が、それによって描写される物体や経験を味わうのに要する時間と、非常に近いのである。むしろ言語の助けなしにはそれを考え続けることが難しいことがらに限り、言語を用いるのがよい。言語の助けなしにも、その人が勝手に考えるようなことについては、敢えて言語化してその人に伝える必要はない。自分自身についても同様である。

 言語をまじまじと、実物と見比べてはいけない。