対象と手法

 粒子的であるにしろ波動的であるにしろ最初に「光」というものを物質的なイメージとして把握した人間は、物質的なイメージとして把握したあとで幾何学的な対象として考察たとしたというよりは、幾何学的な手法で考察できるような物質的イメージで把握たとしたのではないだろうかと想像することがある。

 

 △物質的イメージで把握→幾何学的手法で考察

 ◯幾何学的手法で考察→物質的イメージで把握

 

 とはいえ任意の現象について「幾何学的手法で扱おう!」というスタンスを取っても上手く扱えるわけではないだろうと思う。

 幾何学で考察できそう⇄物質的イメージで把握できそう

と,手法と対象とが相互作用的に増幅していき,幾何光学や波動光学の発展に至ったのではないだろうか。

 

 「それが真に何であるか、どういうものか」は決して価値がない問いではないと思うが、何となくそれを(大雑把にでも)扱えそうな手法に合うように対象を把握する。とりやえず大雑把にやってみて、できあがったものを修正していく。

 

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コーカソイドに比してモンゴロイドの顔骨格は平坦(特に眼窩付近)なのに由来し、モンゴロイドの顔を描くとき、陰影つけなくてもそれっぽくなる(唇とか鼻穴も陰影だけど、線で事足りる)。骨格の凹凸の対比同様、西洋画と(たとえば)浮世絵とで、陰影を重視するか無視するかの違いが見られる。

被写体の違いが、絵画技法の違いを促したかも知れないし、またその逆もあったかも知れない(描くときに無視するものを普段もあまり重視しないような認知的影響)