演繹(deduction)からビッグ・ピクチュァ
- 定義
- 推論:1つ以上の命題を根拠にして、別の命題を導くこと。
- 前提:推論において、根拠となった命題(の集合)のこと。
- 帰結:推論において、前提から導かれた命題(の集合)のこと。
- 演繹的であるということ:ある推論について、前提を認めるならば帰結も認めざるを得ないとき、この推論は「演繹的である」という。演繹的な推論を行うことを「演繹(する)」という。あるいは証明と呼ぶ。
ある前提も,別の命題によって演繹されることがある。またある帰結を根拠にして,別の命題を演繹することがある。したがって「ある命題が『前提』であるか『帰結』であるか」は,「行っている証明においてどの定理に注目するか」に依存する,相対的なものである。 - 「証明を要しないほど明らかである」あるいは「証明が困難である」などの理由により,ある命題を証明しないことに決めた場合に,その命題を前提として他の命題を証明するならば,その命題は「公理」や「仮定」などと呼ばれる。
任意の公理は仮定であるが,「公理」と呼ばれるのは,非常に膨大な数の命題を証明する体系の前提に限られるという慣習がある。
例:ユークリッドの『原論』("Στοιχια" by Ευκλειδησ) - 命題の演繹的体系において,公理以外の命題を「定理」と呼ぶ。定理は,公理と,定義あるいは規則(規約)によって証明される。公理,定義,規則(規約)は証明を要しないが,「自然さ」「自明さ」「納得」「妥当性」を要求されることがある。しかしそうでない場合もある。
- 仮に演繹(正しい推論)を行なったとしても,証明された命題が事実であるとは限らない。したがって証明における命題の「真偽」は,実験的検証に依存するのではなく,あくまで推論において前提によって保証されるかどうかに依存する。つまり推論の帰結が「真」であるということは,あくまで,推論が,演繹的であるということである。
- 数学者の仕事として完成した数学理論は,完全に演繹的な体系である。いくつかの前提と定義と規則から出発して,広大な帰結の体系が出来上がる。
しかし数学者の作品が演繹的であるからといって,数学者の仕事が演繹的であるというわけではない。例えば個別具体的な法則を一般化する帰納の作業が重要である。
帰納はしばしば「発見的」に行われる。また例えば幾何学における補助線の発見も「発見的」である。演繹的体系においては,演繹の過程をあらゆる人間が認め,反証が出ないことが求められ,その意味で「誰もがわかる」「誰もが理解する」普遍的なものであることが要求されるけれども,発見の過程には,個体差,すなわち「才能」「センス」であるとか,「興味」「熱中」や「長考」と呼ばれるものが関わることがある。 - 反論が出ず,あらゆる人間が認めるからといって,直ちにその体系が数学であるというわけではない。数や計算規則による証明は,演繹的な証明と相性がよいようである。幾何学などの演繹的体系を模範にして,倫理や道徳,哲学などを演繹的に体系化しようという試みもあるが,仮に一見うまくいったように体系化を行なった人間が行なったとしても,時代,場所,個体が異なれば証明として納得が得られないということがしばしばである。数や規則に関する証明が,時代・場所・個体の違いを問わずこれまで有効であったという意味で,数学はホモ・サピエンスの身体に普遍的に共有される何らかの構造に関連しているものであるのかもしれない。
道具は対象を選べ
魅力を言語で語ることに適した映画と、そうでない映画がある。"Gravity"や"Death in Venice"は前者に属するが、"Thr Godfather"や多くのブロックバスター映画、大ヒット作は後者に属する。
同様に、それが言語で、あるいは数学で、等々、君の持っている道具で扱うことに適した対象であるかどうかについての直感的判断を尊重すること。