対象と手法

 粒子的であるにしろ波動的であるにしろ最初に「光」というものを物質的なイメージとして把握した人間は、物質的なイメージとして把握したあとで幾何学的な対象として考察たとしたというよりは、幾何学的な手法で考察できるような物質的イメージで把握たとしたのではないだろうかと想像することがある。

 

 △物質的イメージで把握→幾何学的手法で考察

 ◯幾何学的手法で考察→物質的イメージで把握

 

 とはいえ任意の現象について「幾何学的手法で扱おう!」というスタンスを取っても上手く扱えるわけではないだろうと思う。

 幾何学で考察できそう⇄物質的イメージで把握できそう

と,手法と対象とが相互作用的に増幅していき,幾何光学や波動光学の発展に至ったのではないだろうか。

 

 「それが真に何であるか、どういうものか」は決して価値がない問いではないと思うが、何となくそれを(大雑把にでも)扱えそうな手法に合うように対象を把握する。とりやえず大雑把にやってみて、できあがったものを修正していく。

 

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コーカソイドに比してモンゴロイドの顔骨格は平坦(特に眼窩付近)なのに由来し、モンゴロイドの顔を描くとき、陰影つけなくてもそれっぽくなる(唇とか鼻穴も陰影だけど、線で事足りる)。骨格の凹凸の対比同様、西洋画と(たとえば)浮世絵とで、陰影を重視するか無視するかの違いが見られる。

被写体の違いが、絵画技法の違いを促したかも知れないし、またその逆もあったかも知れない(描くときに無視するものを普段もあまり重視しないような認知的影響)

発話のルール

 「私自身が確かに納得のできること,反論の余地なく私自身を説得できることしか語らない」。私が考えるにあたって課すほんとうに最初の行動原理は,これだけでいい。

 何も思わないのなら,黙っていなければならない。興味のあること,一過言のないことについては,沈黙していなければならない。

消費者と生産者

 シンプルで単純で、人間に楽をさせるアイデアを産むことが、簡単であるとは限らない。一般に知識や技術を生産することと、知識や技術を消費することとはことなる。うまく使えるものを自力で発明できるとは限らない。理解できるものを自力で思いつくとは限らない。

 何かに憧れを抱くことと、その憧れの対象に自分自身がなり、であることとは、異なる。

計画の限界

 何かを学んで身につけたければ、学び方を考えるのではなく、ただ学べばよい。同様にして、ある種の作業やプロジェクトは、やり方を考えることによってではなく、ただやることによって前進する。というのも、そういった作業やプロジェクトの場合、実行を中心的に担う我々の身体部位の生理的・化学的反応は、我々の制御下にないからだ。